青春ド真中!
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■3話

01.お笑い満載オープニング
02.小森先生(神田正輝)とは?
03.なぐられた島田そして宮本
04.教頭の一合升理論
05.バクダンの一合升理論
06.特別教室を断る小森先生
07.島田とバクダン
08.小森先生の悩み
09.恐ろしき萌子先生
10.総評(4話への前置き)






5.バクダンの一合升理論

 バクダンは、校長先生に熱っぽく語りました。

「俺は産休補助教師ですからね、あと3ヶ月もすれば、この学校を出て行かなければならない。だからせめてこの学校にいるときだけは、あいつらに精一杯のことをやりたいんですよ」
「若いね、君は」
「皮肉ですか?」
「いやいや、羨ましいんだよ」

 校長先生には覇気がありません。覇気があるのは教頭先生の方です。バクダンが修学院高校に来たとき、生徒全体に覇気がなかったわけですが、それは校長先生も同じでした。つまり、校長先生も、大多数の生徒たちも、死んでいた。青春を墓場に捨ててしまっていたのです。

 逆に言うと、敵対する教頭先生は、修学院高校で大いに青春していたし、教頭先生につづく優等生たちも、大いに受験勉強にはげんでいました。バクダンと教頭先生たちは、敵対してましたが、皮肉なことに覇気があったということでは両者は一緒です。そして、松本元(草川祐馬)たちも、教頭先生も、覇気を失っていたという点は同一です。校長先生は言います。

「私は長いことあちこちの学校で教頭をやってきたんだがね、教頭という仕事は下から突き上げられ、上から押さえ込まれ、あっちの気持ちをわかってやらなきゃ、こっちの気持ちをわかってやらなきゃと、やっと校長になったときには自分でもどうしていいのか分からなくなっててね、この学校をもう少しで潰してしまうところだったんだ。正直言って竹下君(教頭)が来てから、この学校はもりかえしたんだ」
「・・・・」
「竹下君(教頭)の一升升理論にしたがえば、しょせん私は、校長という器じゃなかったのかもしれんね」
「校長は、そうやって自分自身を納得させているだけじゃないですか」
「うん?」

 バクダンは、またもや校長先生に噛みつきました。赴任早々、生徒たちに噛みついたように、校長先生にかみつきました。どうやらバクダンは、こういう覇気のない人間を嫌うようです。そして、自分を必要以上に低く見る人間に対しても・・・・。バクダンは言います。

「教頭の理論に従えば、俺だって一合升です。高校の時に勉強が分からなくてさんざん苦労しました。大学だって三流校だし、勤めたところだって三流商社だし・・・・。でも俺は、頭は一合升かもしれないけれど、俺の生きてきた人生は一合升なんかじゃない。そう思ってるんですよ」

 バクダンの視点には、いつも『人生』からの視点が入っています。人生は、そもそも升なんかで計れないんですね。けれど、頭は升で計れます。計れる程度のものなんて、戦乱の東南アジアを生き抜いてきたバクダンにとって屁みたいなものだったのでしょう。世の中には、計れるものより、計りきれないものの方が、だんぜん多いからです。だからバクダンは言います。

「俺が彼奴らに教えたいのは、英語なんかじゃない」
「・・・・」
「英語なんてのは、その土地に行って必要にせまられれば、誰だって否応無しに覚えられま。俺が彼奴らに教えたいのは・・・・、周りから一合升と決めつけられて、自分でも、そう思いこんでしまうなということなんです」

 計れるという尺度をもって、まわりから一合升と決めつけられる。それは、仕方がないことです。しかし、それをもって、自分を一合升と決めつける必要が、どこにあるのでしょうか? 

 話はかわりますが、人間なら誰しも「自分は何者だろうか?」と言う疑問をもったことがあると思います。いったい自分は、何者なのでしょうか? 実は、それについて明確な答えを出した人がいます。マーフィーの法則で有名なマーフィー博士です。

「自分とは、今、自分が考えていること、感じていることそれ自体です。 自分が幸福で心がわくわくしているような時、それがあなたなのです。自分がみじめで、不幸で、どうしょうもないと感じている時、それがあなたなのです。あなたが何かよいことを考えている時、その考えがあなたなのです。 あなたが何か悪いことを考えている時、それがあなたなのです。ですから、あなたという固定したものは、本当は何もないのです」
【マーフィー100の成功法則/大島淳一著より】

 しかし、どういうわけか、歯車に飼い慣らされた私たちは、俺はダメな人間だとか、私はエリートだとか、自分はブスだとか、自分はかっこいいとか、人間を固定してとらえてしまう傾向があります。人間を成績や肩書や外見でとらえてしまいます。つまり、社会の歯車の評価に自分をあわせてしまいます。やれ一合升だとか、やれ一合升だとかで一喜一憂します

 さて、ここで話をふりだしに戻します。
 自分とは何者でしょうか?

 自分とは、自分が考えていること、感じていることそれ自体です。 自分が喜んでいる時、それが自分です。自分がみじめだと感じている時、それが自分です。ダメ人間とか、エリートとか、ブスとか、美人という固定したものは、何も存在してません。つまり自分とは、他人の評価でも、社会の評価でもなく、自分自身の評価なのです。しかし私たちは、他人の言動で傷ついたり、社会の評価に一喜一憂します、まわりにふりまわされて、不当に自分を低く評価します。

 バクダンは、そういうことを言いたかったのではないでしょうか? だから校長先生の、「竹下君(教頭)の一升升理論にしたがえば、しょせん私は、校長という器じゃなかったのかもしれんね」という言葉に、あれだけ反発したのかもしれません。