青春ド真中!
ドラマ 1話 2話 3話 4話 5話 6話 7話 8話 9話 10話 11話 12話 13話
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■4話

01.記憶
02.DVD
03.思い出
04.勉強とは?
05.萌子先生の恩恵作戦
06.理解しない草森九
07.見捨てられた草森九
08.自信をつけさせる作戦
09.面子を失ったボーヤは?
10.結果は?

02.DVD

 DVDの2話を見て、少しだけ記憶が蘇りました。私は、このドラマを家族に隠れてラテカセ(テレビ付ラジカセのこと)で見ていたのです。私以外の家族は、全員、NHKの大河ドラマの「黄金の日々」を見ていました。この頃の私は、家族と口をきくこともなく、部屋の電気を消し家族に隠れて息を潜めながら青春ド真中!を見ていた。まるで犯罪を犯しているようにです。そうでないと、NHK以外のテレビを自由に見れなかった。

 NHKの大河ドラマの裏番組が青春ド真中!であったことも、このドラマを見ようという意志を助けました。些細なことではありますが、両親に反抗する意味合いもあったと思います。私の厳格な親に対する反抗は、その程度のものでした。
 今にしてみれば、実にカワイイものであったと思います。もし、当時、「ひきこもり」という言葉があったとしたら、私は間違いなくひきこもりでした。小遣いを貯めて買ったラテカセを使って、こそこそ隠れてテレビを見るひきこもりだったかもしれません。それも1日に2〜3時間くらい民放を見る、そして1日に2〜3時間くらい司馬遼太郎の歴史小説を読むという実にたわいのないひきこもりでした。

 そのひきこもりが、たまたま青春ド真中!というドラマに出会ったとき、そのドラマに夢中になってしまった。青春ド真中!では、1978年当時、高校2年生の物語でしたが、私も当時、高校2年生でした。
 同じ世代、それも同じ学年が画面に映っている。しかも、画面の中の登場人物は、自分と同じような存在で、自分と同じような悩みをかかえているのです。しかも、その悩みに対する回答のようなものが、ドラマの中にあるような雰囲気を漂わせている。当時の私は、どんどんドラマにのめり込んでいってしまった。

 特に衝撃的であったのは、
「学校は楽しいところではないのか?」
という問いかけでした。

 1話で登場した無気力生徒たちは、当時の私自身そのものでした。いや、1978年における全国の大多数の生徒諸君におけるリアルな姿だったと思います。ひきこもりとか、オタクという存在は、1978年当時も確実に存在したと思いますし、私にもそういう部分があったでしょう。
 ですから1話にでてくる無気力生徒たちは自分そのものであったと言えます。私も学校を面白くなくすことに手を貸していた生徒の一人だったと思います。青春ド真中!をみると否が応でもそれに気づかざるをえなかった。それゆえにバクダンの
「学校は楽しいところではないのか?」
という問いかけには頭を殴られたような衝撃を受けました。そして、自分も学校を楽しくしようと考えるようになったのです。

 その結果、私は、ますます勉強をしなくなった。自由に生きるようになった。ヤケクソのように自由になった。楽しくないなら学校は辞めてもよいと思うようになった。人生には、もっと大切なものがあると確信するようになったのです。
 そして、その確信が強固になり、実際に実行するようになると、青春ド真中!というドラマは自分の記憶の中から消えてしまった。どういう訳か消えてしまった。フィクションでない自分自身のドラマは、小説より奇なりでした。青春ド真中!を思い出すゆとりは、とてもじゃないけれど、ありませんでした。

つづく(2007.2.9)